マイモットー

     
生き生きと働く
作り笑顔もたいせつです
笑顔で接することのできない人間は商人になれない(中国の諺)という言葉があります。この笑顔を忘れない精神というのは、お客さまを相手にする商売をする人にとっては必須です。事務所に飛び込みで来るセールスマンは、まず断っていますが、ドアを開けて第一印象で見る笑顔があまりにきれいだと、つい中に入れてしまうことがあります。笑顔はその人の内面を映し出す鏡なのでゴマカシはききません。作り笑顔はすぐにバレます(しかし作り笑顔はそれなりに相手に誠実さが伝わります。かく言う私も笑顔が苦手で、若い頃営業で顧客廻りをするときには苦労しました。)。
 かの養老孟司氏はある対談で「頭脳に出力されるのは筋肉の動きだけだ」と述べておられました。職業上の要請で作り笑顔をし、その後気持ちが何となく快活になった経験はありませんか?体の動作は感情に直接影響するから、笑顔を作れば快活になれるということです。今はやりの「プレゼンテーション」における笑顔は、西洋から来たのでしょうがビジネスに必須とされています。
「そこのカノジョー」と呼べば、その女性には絶対に振り向いてもらえません。つきあいの浅い人から名前で呼ばれて嬉しくなった経験はありませんか?相手に気に入られるためには、月並みですが、相手の名前を覚え、名前で呼んであげることです。自分の重要性が認識されれば人は嬉しくなるものです。
 名前がいかに大切か例を言いましょう。近鉄球団の買収を発表(平成16年8月現在)したライブドアの堀江社長。この人については毀誉褒貶(きよほうへん)さまざまですが、「ライブドア」の名前は堀江社長から買収された方の会社の名前です。ご存知の方も多いでしょうが、ライブドアは無料電子メールを売り物にしてネットをやる人の間では有名でした。過剰投資がたたって経営がうまく行かなくなり、民事再生法の適用を受け社員は全員解雇されました。オンザエッヂの堀江社長が買収したとき、倒産した会社が約60億円の広告費を注ぎ込んで普及させたブランドを使わない手はないと判断し、その名前をそっくり買収元企業が採用したのです。(更新前の情報は事実誤認でした。お詫びして訂正します。)   
先程、「頭脳に出力されるのは筋肉の動きだけだ」という言葉を引用しました。筋肉は腕でも腹でも腰でも足でもよいのですが、眼にも筋肉がついています。実際に眼で見て、対象の本当の姿がわかる。名だたる社長は皆「現場主義」ということを言います。こう言うと若い人は「また社長の説教か」と嫌な顔をしますが、結局20代で会社を始めた人も同じことを言います。ビットバレー(ネットビジネスのメッカである渋谷をさす)でも、なぜ平均年齢20代の社員たちが机を突き合わせて仕事をしたがるのか。家賃が高くてそうせざるを得ない、という理由もあるかもしれません。しかし密着することによって彼らは、少しでも同僚からスキルをお互いに学びあおうとしているわけです。もっとも若社長は、欧米の社長をまねして、美人秘書付きのふかふか絨毯の個室に閉じこもって仕事をしている例もある。どちらかと言うとあまり感心できません。
 会計事務所の業界でも、ASP(Application Service Provider)を使って、会計データをネット上でやりとりすることが行われるようになりました。事務所職員に毎月来てもらうと高くつくから、パソコンで自前で処理し、データを会計事務所に送信する。その代わり料金を安くしてもらう、というわけです。職員の質は低いです(私もその一人でした)。しかし数値だけでアドバイスしようというのが、そもそも思い上がりで、財務分析ほどあてにならないものもないのです。会社の社長の話しっぷりや預った領収書を見るだけでも、会社の姿がみえてきます(これを定性情報と我々は呼んでいます)。   
マクドナルドのメニューでお馴染みの「スマイル0円」。藤田田元社長(故人)がセブン・イレブンを経営するイトーヨーカ堂の社長と対談した後、こう言いました。「我々はセブン・イレブンに勝てる。なぜならセブン・イレブンにはスマイルがないからだ。」 業績悪化で藤田商店が契約を解消され、所有するマック株を売らなければならなくなった時、藤田の顔からはスマイルが消えていました。
 ファーストフードショップやファミレスに蔓延するマニュアル言葉は、マックが元祖ではないでしょうか。これらマニュアル言葉が強制する人工的ないんぎんさ、よそよそしさは、却って商品の売り手と買い手とが本来交わすべき心の触れ合いを奪ってしまっていると思います。市場経済の起こりは、もともと売り手と買い手の意気投合から始まったはずでした。これと似たような現象が若者が起業したカタカナ名前の会社には目立つようです。Y世代(日本経済新聞が名づけた)と言ってしまえばそれまでですが、この傾向は会計事務所にまで押し寄せています。仲間同士と他世代に対する言語を使い分けるのが当然だと思っています。マスを相手に商売するのであれば、それも当然でノルマを達成できません。ただし対面で商談をまとめるのであれば、相手の懐深く入るのでなければ、信頼を勝ちうることはできません。商売をするにあたって「最もよい説得方法は、相手に気に入られることである」(カリエール)。
  平成16年8月22日
更新 平成16年9月19日   
どのようにして幸福になるか
Be happy
五木寛之氏がある対談でこんなことを言っていました。「知り合いの歯医者から聞いたのだが、時々70、80歳の高齢者で生まれたときから全然歯が抜けないで揃っている患者が来た、診断してみると歯垢が歯全体にこびりついていて、歯周病菌がいっぱいついていた」。歯垢と歯周病菌がその人の歯を守っていたというのです(ちなみに五木氏は年に4回しか頭髪を洗わないそうです)。氏の語ることは、他の著書でも言っているのですが、病魔と仲良くする、あるいは共棲する、それが却って健康を保つという発想です。幸福を語るにあたっては、ずいぶんと励まされる話ではないでしょうか。    
「人間の幸福というものは、時たま起こるすばらしい幸運よりも、日々起こってくる些細な便宜から生まれるものである」。凧から電気を発見したというフランクリンがこのように述べています。ここでいう「便宜」は、「ラッキー」だなと思った瞬間とか「ちょっとうれしい」と思うときです。わかるような気がします。賭けの好きな人は、自分の予想が当たってつい知り合いに電話してしまうとき、呼び出してオゴるとき。ちょっとした情趣に楽しみを見出すのは、日本人の「侘び寂」の文化ですが、中国文化の中にもあります。「花は半開を看、酒は微酔に飲む、此の中に大いに佳趣あり」(洪自誠・菜根箪)。幸福は、物質的な潤沢さが必要とされるのでしょうか。
あらためて、幸福の前提には財産が必要でしょうか。あるに越したことはないし、必要条件にはなるが、十分条件とはならないように思えます。子供を一番不幸にするには、親が何でも手に入れられるようにしてやることだという説もあります(ジャン=ジャック・ルソー)。金持の子は皆幸福そうに見えるかというとそうでもありません。中には顔のひきつった子もいます。そうではなく、喜びの多くはすべて物事をなしとげたという達成感、あるいは自分が認められた満足感から来るように思えます。立志伝を読むと、皆子供のときに家が貧乏で苦労していなかったでしょうか。   
昔幸福になりたいと思ってヒルティの「幸福論」を読んでみました。それによると幸福とは「自分の仕事がある」、ということでした。これには誰でも頷ける話です。このことは女性でも違いはないと思います。会社に勤めている人はどうでしょうか。定年が近づくと覇気がなくなるのは、会社人間の悲しさですが、社会構造が人間の生物学的寿命を決めているようで、ぜひとも改善しなければなりませんが、だんだんそういう社会に近づいてきました。それは、実力さえあれば定年に相当する年齢以後も働けるが、そうでなければ若くして働き口がなくなる、という皮肉な結果をもたらします。   
自分が今現在、本当に幸福だと実感している人間はほとんどいないと思われます。後になって振り返って「あの時は幸福だったな」と実感するのではないでしょうか。突然の不遇もその前の幸福を実感させてくれます。人事異動は宮仕え人間の悲しさでしょうか、本社から地方営業所への左遷、社長秘書から受付への転属など。たいして幸福だと思わなかったのに飛ばされてから「あの時はよかった」などと思います。国鉄民営化の時など、保線区で誇りをもって仕事をしていたのにキオスクに配転されて自殺した人が何人も出た、という記事を読みました。(余談ですが、私がいた上場企業でも採用された女の子が初出社の日、自分の席がなかったので落胆して一日でやめたこともありました。)戦争で大黒柱を失った家族も同じような「過去の幸福」を実感しています。
私事ですが、子供の頃家が貧しかった、兄弟が多いので、都心の借家で子供が狭い部屋にいわしの缶詰のようになって寝たり、また家業に駆り出されていました。勉強したくても仕事が終わってやっとできるような状態が続きました。しかし私も兄弟も、順当に育って大学へ行き社会に出ていった、今から思うと「あの時は幸福だったな」と実感できるのです。
 幸福になろうと思って努力しているときが一番幸福なんだ。
もうひとつ、幸福の定義を言えば多くの人から当てにされていること、ではないでしょうか。「受けるより与える方が幸いである」。これは「自分には多くの人を従わせることができる権力がある。それが私の夢だ」などと考える人とは大きな違いがあります。
冬には関東でも雪が降ります。犬は庭を駆け回り、猫は炬燵で丸くなります。子供はおおはしゃぎですが、これすべて、雪の浅い国での出来事でして同時期の北陸や東北では、事情が違い地方全体の経済が止まってしまう、雪は恨めしい物なのです。
 貧乏を経験したことのない人が「お金で貴い物は買えない」と言います。貧乏を経験している人は「お金で買えないものはない」と考えます。ただし、伝統と良識を除いて。裕福な家庭に生まれた人や相続によっておおきな財産を得た人は、貧乏から叩き上げた人に比べおおむね友情とか人情を理解する人が少なく、他の意味で財産に恵まれていないと言えなくもないのではないのでしょうか。
  平成16年8月26日
  
仕事に関する趣味的の一考察
An Observation on arts of working

誰でも一度生まれてきたからには、自分にとって満足のできるいい仕事がしたいと思っていると思います。お金を稼ぎたいと思うよりもにです。お金が入ってくるのはあくまで「満足のできるいい仕事」ができたという検証の意味あいでしょう。他人に幸福、便宜、利便を与えることができた、その結果としてお金が入ってきます。
 若い人に仕事を任せるときでも、サボりたいと思っている人はいない、皆自分が満足できる仕事をやり、人に認められたいと思って仕事をしています。
仕事を持たない人は不幸だと前に書きましたが、ところで、お金はいっぱいあるが仕事はしなくてすむという人はどうでしょうか。生活に不自由はしませんが、(もし自分がその境遇にあるとして)本当に毎日が楽しいでしょうか。ごく上流階級にはそういう一団の人々が外国にも日本にもいます。労働しないのだから休息の必要もありませんが、休息のためにご自慢の別荘に行っても心の休息は得られない。本当の休息は自分の仕事の中にのみあるのです。
まあそうは言っても、人間の本性としては怠けたいのが本音で、実際はやらなければならない仕事になかなか取り掛かれない、というのが万人の悩みでしょう。このことに関して上述のヒルティは次のような方法を紹介しています(野口悠紀男氏が「超仕事法」?で紹介していました)。
 「まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっているのである。」
いわゆる成功本やチアアップ(元気付け)本を出せば売れるご時世です。メインテーマは「いかに勤勉を習慣化してあるいは逆境をバネにして大成するか」です。約120年前にカール・ヒルティが仕事の仕方について著した「幸福論(第一部)」(岩波文庫)をまだの方は是非ともお読みください。他のエッセイは読みにくいですが、仕事に関する次の三つのエッセイは現代にも通用する、仕事を持つ方必読のものです。
 「仕事の上手な仕方」
 「良い習慣」
 「時間の作り方」
お金を持つことが必ずしも幸福に通じない例を言いましょうか。名古屋のテレビ塔からドル札が乱舞したというニュースをご存知の方も多いでしょうね。若いデイトレーダーがインターネットで株の売買をやって一日で何千万、何億も儲かり、「あっという間に金儲けという自分の目的を達成してしまったので、生きている意味がわからなくなった」ということです。エミール・デュルケムという社会学者が、人は「貧乏人が急に金持ちになったときでもアノミー(何をしてよいかわからなくなるパニック)が起きる」と言っています。これを「目標のアノミー」と言います。大金持ちになって幸福になるどころか不幸になったというのです。全く仕事をしたという達成感がないからです。社会システム学者宮代真司氏の「アノミー」の解説を是非ともお読みください。
話題は変わりますが、いろいろな物が機械に置き換えられています。食事に例えると米を作るのに田植えから稲刈りまで昔は人力や牛馬に頼っていたものが、ほぼ農業機械でできるようになりました。それを炊くには、とぐことは別にして電気炊飯器がやってくれます。それから先は残念というべきか幸いというべきか、料理をやる人の人力に頼っています。回転寿司チェーンや持ち帰りショップでは寿司を握る機械が開発されたと聞きましたが、あまり人気は出ません。威勢のいい寿司職人の掛け声と同時に出てくるにぎりやつまみには勝てないでしょう。そもそも手が機械と異なる点は、手がいつも直接人間の心とつながっていて、手仕事に不思議な働きを起こさせているからだと思います。これからは機械に任せる部分と人間の手がやる部分をどのように使い分けるかが、仕事にとっても重要なポイントになるでしょう。
日本人の作る「美」が賞賛されます。わが国の先人が作った文化は言うに及ばず、ジャパニーズ・クールと言って日本人の作る、例えばアニメやゲームとか村上隆氏が作るデザインに代表される知的無体財産権が製造業に代わって国際競争力を持つようになっていると。確かに日本人の自然美・造形美に対する関心は非常に強いものがあります。
 ただし個人的には、芸術至上主義への落とし穴や誘惑が見過ごされていやしないかという危惧をもっています。また防衛議論の前提として日本文化を守るのだ、というのがあります。日本人民の解放に資する美のみが美だというような時代錯誤の議論は措くとして、美を自己目的化するのも問題あり、というのが私の考えです。日本民藝館を創設した柳宗悦氏は次のように論じています、偉大な古作品は一つとして鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に明記する必要がある。いたずらに器を美のために作るのなら、用にも堪えず、美にも堪えぬ、と。
  平成16年9月2日
  
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